LOGIN橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。
朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」 「大丈夫よ」 「大丈夫には見えない」 「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」 エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」 「でも縫製の仕事が——」 「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」 セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」 「反論しなくていい。寝ていて」 エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」 「大袈裟よ」 「大袈裟じゃない」 エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。 マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。 役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。
目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」 「謝らなくていい」 「でも」 「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけの話じゃない」 セレーナが少しだけ目を細めた。 「あなたって、本当に——」 「何?」 「お父さんに似てる」 エリナは少し止まった。 ダリウスも同じことを言った。アルバも言った。 「似てますか?」 「似てる」セレーナが静かに言った。
「言葉の選び方が。論理を積み上げて、でも人を見ていないわけじゃない。そういうところが」
エリナはそれに、何も言わなかった。 しばらく沈黙があった。 窓から午後の光が差し込んでいる。ルシェムの空は、今日は晴れていた。 「お母さん」 「うん」 「父のことを、聞いてもいいですか」 セレーナが少しだけ、目を動かした。 「いつでも聞いてよかったのよ」 「聞きにくかった。お母さんが、父の話をする時、いつも少し顔が変わるから」 「変わる?」 「悲しいのか、懐かしいのか、怒っているのか、そのどれでもないような顔になる」 セレーナがしばらく黙った。 「全部よ」セレーナがゆっくり言った。
「悲しくて、懐かしくて、少し怒っていて、でも愛しくて。全部が一度に来るから、顔がどうなるかわからなくなる」
セレーナは、少しずつ話した。
布団の中で、天井を見上げながら、言葉を選ぶように。 「あなたのお父さんは、頭がよくて、真面目で、でも不器用な人だった」 「不器用?」 「正しいことを、正しいまま言おうとする人でね」セレーナが少し笑った。
「宮廷では、それが難しい。正しいことでも、言い方を変えないと伝わらない場所があるでしょう。お父さんは、その言い方を変えることが、あまり得意じゃなかった」
「それで、反発を買った?」 「最初は、そうだった。でも、内容が良かったから、少しずつ聞いてくれる人が増えていった」セレーナの目が、少し遠くなった。
「あの頃は、本当に良くなっていくと思っていた」
「それが、クロヴェルに——」 「潰された」セレーナの声が、わずかに変わった。
「証拠を捏造されて。信じてくれる人がいなかったわけじゃないけど、声を上げてくれる人は少なかった。そういうものよ、力がある場所では」
エリナは黙って聞いた。 「陛下も、助けてくれると思っていた。でも、大貴族の圧力が強すぎた。陛下も、悔しかったと思う。でも、動けなかった」 「今の陛下は、動いてくれている」 「知ってる。アルバ殿下が通達を出してくれた話も、フィオナちゃんから聞こえてきた。あなたたちが動いてるの、わかってる」 しばらく沈黙があった。 「お父さんは……私のことを、知っていましたか」 「知っていたわ」セレーナが少し顔を向けた。
「失脚した後、裁判を経て、平民として釈放された。でも、もう体が——」
「どのくらい生きましたか?」 「あなたが三歳になった頃に、亡くなった」 エリナは、その言葉を受け取った。 三歳。 この世界の言語を習得して、少しずつ周囲を把握し始めた頃。父はその時、すでにいなかった。 「会っていましたか。私と父が」 「一度だけ。あなたが一歳を過ぎた頃。父が病室に来てね。あなたを抱いた」 エリナは、その光景を想像した。 赤ちゃんの頃の自分の視界は、ぼんやりしていた。でも、抱いてくれた人の腕の温度は、どこかに残っているかもしれない。 「何か言っていましたか?」 「言っていたわ」セレーナが少し間を置いた。
「『この子は、私よりうまくやる』って」
エリナの喉の奥が、少しだけ詰まった。 「それだけですか」 「それだけ言って、あとはずっと黙ってあなたを見ていた」沈黙があった。
長い沈黙だったが、不快ではなかった。 エリナはセレーナの布団の端に座ったまま、窓の外を見ていた。 この子は、私よりうまくやる。 その言葉を、頭の中で何度か繰り返した。 自分がどれだけ「前世の知識」を持っていても、この世界に生まれた一歳の赤ちゃんを見て、父はその言葉を言った。 知識がそこにあるとは、知らなかったはずだ。 それでも、そう言った。 「お父さんは」エリナがゆっくり口を開いた。
「なぜそう思ったのでしょう」
「わからない。でも、あの人は人を見る目があった。何かを感じたのかもしれない」 「何を?」 「さあ」セレーナが少しだけ笑った。
「でも、間違いじゃなかったでしょう?」
エリナは答えなかった。 答えられなかった、というのが正確かもしれない。 うまくやれているか、父に見せられているか、まだわからない。 でも、父の言葉が間違いでなかったと言えるように、これからもやっていく。 それだけは、確かだと思った。「お父さんの、改革案の話を聞かせてもらえますか?」
しばらくしてから、エリナが言った。 「詳しいことは、私も全部は知らないけど。あなたのお父さんは、『魔法に頼りきらない国を作る』ということを、ずっと考えていた。軍の中に、魔法を使わない戦術を専門とする部隊を作る。税制を見直して、魔法師だけが優遇される仕組みを変える。省庁の権限のバランスを取り直す」 「父が失脚した後、その案はどうなりましたか」 「消えたわ。正式な記録から。誰かが賛成していた痕跡も、消えた」 「消された、ということですか」 「そうだと思う」 エリナは、その言葉の重さを受け取った。 記録から消された案。それを、今、自分は数字と現場の実績で再び証明しようとしている。 「私がやっていることは、父の案の続きではない。でも、同じものを見ている」 「同じもの?」 「魔法がなくても、人が助かる仕組み。それが作れるという証拠を、私は集めている」 セレーナがエリナを見た。 その目が、少し潤んでいた。 「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 「さあ」エリナが少しだけ口の端を動かした。
「『私よりうまくやっている』と言うか、『まだ足りない』と言うか」
「どっちだと思う?」 「どちらでもいい」 「どちらでも?」 「どちらを言われても、やることは変わらない」 セレーナが、静かに笑った。 「やっぱり、あなたはお父さんに似てる」 「よく言われる」 「誰に?」 「ダリウスに。アルバ殿下に。お母さんに」 「みんな、同じことを感じてるのね」 エリナはそれに何も言わなかった。 窓の外から、夕方の風が入ってきた。夕方、セレーナの熱は完全に下がった。
薬草茶をもう一杯飲んで、顔色が戻ってきた。 「明日から、仕事に戻れる」 「明日は、まだ休んでいい」 「大丈夫よ。もともと丈夫な体だから」 「じゃあ、半日だけ」 「半日?」 「午前は休んで、午後から少しだけ。それが折り合い」 セレーナが笑った。 「交渉するのね、こんなことまで」 「合理的な落とし所を見つけるだけ」 「そういうところが——」 「父に似てる、でしょう」 「わかってるじゃない」夜、エリナは事務室で一人、机に向かった。
今日、父のことを初めてまとまって聞いた。 不器用な人。正しいことを正しいまま言おうとした人。一歳の娘を抱いて、「この子は私よりうまくやる」と言った人。 セレーナを通じて、少しだけ輪郭を持った人物になった気がした。 前世の自分には、父親と呼べる人間がいなかった。 正確には、いたのだろうが、記憶の中には薄い存在だった。仕事で忙しく、家にいない人だった。 この世界の父は、エリナが物心つく前にいなくなった。 でも、「この子は私よりうまくやる」という言葉を残してくれた。 それが、今のエリナには、思っていたより重く響いていた。 エリナはペンを取って、レインへの手紙を書いた。 学院の採用についての礼、流通再開の報告。 最後に一段落、付け加えた。 『今日、母から父の話を聞いた。父が私を抱いた時に言った言葉を、初めて知った。うまく言葉にできないが、書いておきたくなった。「この子は、私よりうまくやる」と言ったらしい。まだその言葉に応えられているかどうか、わからない。でも、やめるつもりはない。』 書いてから、少しだけ見つめた。 なぜレインに書いたのか、自分でもよくわからなかった。 フィオナに書いてもよかった。ゴードンに話してもよかった。 でも、今夜はレインに書きたかった。 理由は、うまく言葉にできない。 消さなかった。 封をして、机の端に置いた。 窓の外から、夜風が入ってきた。 母の部屋から、かすかに寝息が聞こえた。 熱は下がっている。 今日は父の話を聞いた。 父が一度だけ、自分を抱いてくれた。 その事実を、今夜初めて、本当の意味で受け取った気がした。 ランプを吹き消した。 エリナ・アッシュフォード、七歳。 父の言葉を、今夜初めて聞いた。 この子は、私よりうまくやる。 まだ、その言葉に応えられているかどうかわからない。 でも、明日もまた、やってみる。橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。 朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」「大丈夫よ」「大丈夫には見えない」「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」 エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」「でも縫製の仕事が——」「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」 セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」「反論しなくていい。寝ていて」 エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」「大袈裟よ」「大袈裟じゃない」 エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。 マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。 役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。 昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。 目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」「謝らなくていい」「でも」「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけ
流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて







